龍潭ものがたり|冊封使をもてなした600年前の「国家プロジェクト」
龍潭のほとりに立つと、水面越しに首里城の城郭が見えます。散歩の人が行き交い、水鳥がのんびり浮かぶ、静かな池。——でもこの池、実は600年前の国家プロジェクトです。
始まりは「使者のひとこと」だった
1425年ごろ、中国・明から琉球へやってきた冊封使(さっぽうし)が、首里城の北側に庭園を設けてはどうかと勧めたと伝えられます。ときの国王は、三山統一を成し遂げた尚巴志(しょうはし)。王はこの進言を受け、宰相にあたる国相・懐機(かいき)に造営を命じました。
面白いのはここからです。懐機はわざわざ明に渡り、中国各地の名園や池を視察してから帰国し、造営に取りかかったと伝えられます。いわば「庭園づくりの海外視察」。小さな島の王国が、この池にかけた本気度がうかがえます。
こうして1427年ごろに完成したのが、周囲約416m・面積約8,400平方メートルの人工池・龍潭です。
池を掘った土で、山をひとつ築いた
龍潭を掘って出た大量の土は、捨てられませんでした。池の南側に盛り上げて安国山(あんこくざん)という丘を築き、そこに国内外から集めた花や木を植えたのです。
この経緯を刻んだ石碑が「安国山樹華木之記碑(あんこくざんじゅかぼくのきひ)」。1427年の紀年をもつ、琉球に現存する最古級の金石文です。碑文は、池に魚が泳ぎ、周囲に花々が咲き、水面に首里城が映るさまを「琉球第一の名勝」と讃えています。600年前の人々も、いまと同じ構図に見とれていたわけです。
碑そのものは沖縄戦で大きく損なわれましたが、破片が集められて保存され、琉球国時代の石碑群として国の重要文化財に指定されています。
「魚小堀(いゆぐむい)」——庶民がつけた愛称
龍潭にはもうひとつの名前があります。魚小堀(いゆぐむい)——「魚のいる池」という意味の沖縄の言葉です。碑文に「魚が泳ぐ」と書かれたとおり、龍潭は昔から魚の多い池で、庶民はこの飾らない名で呼んできました。
「龍の潜む淵」という漢文的な正式名と、「いゆぐむい」という暮らしの言葉。ひとつの池にふたつの名前があること自体が、王府と庶民の両方に愛された証拠かもしれません。
ハイライトは「重陽の宴」——池が外交の大舞台になる日
龍潭が最も輝いたのは、冊封使の歓待の場面です。
中国皇帝の使者である冊封使は、一度来ると数百人の大所帯で、半年前後も琉球に滞在しました。王府は滞在中に7回の公式な宴——冊封七宴——を開いてもてなしましたが、そのうち旧暦9月9日に開かれたのが「重陽の宴(ちょうようのえん)」。舞台がまさに龍潭でした。
池には彩り豊かな爬龍船(はーりーぶに)が浮かべられ、競漕が繰り広げられます。岸辺の高殿から国王と冊封使がそれを眺め、舞踊が添えられる——その様子は「龍潭重陽宴図」という絵図に描かれ、今に伝わっています。1714年には舟遊びの記録も残っており、龍潭は文字どおり「浮かぶ宴会場」として機能していたのです。
那覇の海で行われる爬龍船競漕(ハーリー)は現在も初夏の風物詩ですが、王国時代には首里の山の上の池でも龍の船が走っていた——と想像すると、目の前の静かな水面が少し違って見えてきます。
いまの龍潭
現在の龍潭は、地元の人の散歩道です。水辺にはバリケンや白サギ、亀がのんびり暮らし、南岸からは水面越しに首里城の城郭を望めます。600年前に「琉球第一の名勝」と刻まれた構図は、正殿の再建とともにまた完全な姿に戻ろうとしています。
夕暮れどき、水面が金色に染まる時間帯がとくにおすすめ。写真スポットガイドでも紹介している定番の構図です。
歩き方のヒント
- 龍潭単体なら15〜20分。龍潭・円覚寺エリアさんぽと組み合わせると、弁財天堂・円覚寺跡・玉陵まで含めて約1時間の濃密コースになります
- 池の南側の丘が、掘った土で築いた安国山のなごり。地形を意識して歩くと600年前の土木工事が体感できます
- 水辺は柵のない場所があります。お子さま連れは足元にご注意を
- 首里の歴史人物をもっと知りたい方は人物列伝、王国の年表は首里城の歴史へ
※本記事は首里城公園公式サイト・沖縄県立博物館等の公開情報をもとにまとめたものです(情報確認日:2026年7月21日)。
この記事に出てくる用語
- 冊封(さくほう) 中国の皇帝が周辺国の王を正式な王と認める儀式。使節団を冊封使という。
首里エリアは宿が少なめ。ゆいレールで直結の那覇市内に泊まるのが定番です。
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